鯉山の始まりは正式にはわかりませんが、室町時代後期の京都の姿をあらわした狂言「籤罪人(くじざいにん)」には 「毎年出る山」として趣向と町内が固定した山として登場しています。
江戸時代には町衆の繁栄とともに山鉾も豪華絢爛になっていきましたが、天明8年の大きな火災では被害を受け、 その復興の一環としてタペストリーの獲得に乗り出し、天保年間(1830〜44)には 鯉山が再建されたと記録されています。
幕末には禁門の変により「鯉」「タペストリー等の織物」以外は焼き尽されましたが、翌年には仮の町席にて祭事のみの居祭を行い、 慶応3年(1867)は唐櫃にて巡行に参加しました。
明治5年(1872)には町衆の寄付により、再建を成し遂げ、明治の末までに飾りを新調して、 現在の鯉山の原型が完成しました。