このタペストリーがいかにして日本にやってきたのか、その経緯は定かではありませんが、1575年から1620年の期間に作られたモノであることから、1600年(約400年前)頃に渡来したのではと推測されています。その後、文化文政の頃に換金のため売却されたモノを鯉山が購入したのではと考えられています。残念ながら鯉山での購入記録は残っていませんが、他の山鉾町の購入証文や記録から見ると1800年頃であることが推測されます。
このタペストリーは5枚シリーズになっており、東京芝の増上寺(火災にて焼失)、加賀藩が1枚ずつ所蔵し、残りの3枚が京都にて売りに出されたようです。他の2枚は裁断され別々に売りに出されたようですが、鯉山は1枚全てを購入し、大工のノミ使い大小9枚に押し切られ、裏面を名物裂で覆い、鯉山を飾ることとなりました。 このことは文政年間に書かれた「山鉾装鈔」に「掛替毛綴見送両断二切左右幕ニ用之、文政九年戌年六月新造之」と記されております。 この名物裂をつけたおかげで、裏面が褪色せず原作のままの色彩が今日まで残ることとなりました。
鯉山を飾るタペストリーは「B.B」という文字が発見されたことで ブラバン・ブリュッセル(現在のベルギー)で製作されたことが明らかにり、ベルギー王室美術歴史博物館により、その図柄はギリシアの詩人ホメロスの叙事詩 「イーリアス」の中の「トロイア戦争物語」の一場面だと調査報告がされています。
復元事業
鯉山保存会では先人より受け継がれてきた貴重な懸装品を後世に伝え残していくため、タペストリーの復元新調事業に取り組んできております。昭和五十七年山鉾連合会において山鉾装飾品新調審議会が発足し、初めての議案として鯉山の懸装品をどのように厚かていくべきか検討が始まりました。こうして山鉾連合会、国立京都博物館、川島織物の協力を受けながら復元プロジェクトが始まりました。懸装品初の復元新調事業であったため、国の補助体制も整っておらず、書類上の手続きなどをクリアしなければいけない事が多く予想以上の難題でした。
昭和五十九年に見送りの試作が始まりました。試作段階では褪色した現状の状態を復元する予定でしたが、文化財復元の鉄則に基づき製作時の状態に戻すこととなりました。褪色前の状態を探るため裏面を調査することになり、裏裂を剥がし解体すことになりました。裏面には褪色劣化を免れた鮮やかな色彩が残っており、さらに表面に加筆彩色を施していた事が確認されました。試作を繰り返しながら検討・準備期間を経て昭和六十二年、本番の製作が開始されました。
下絵製作・織下絵・糸染め・配色指示図・機準備と着々と整え昭和六十三年製織が始まり、平成元年春に見送りが完成しました。使用した色数は基本染色465色、杢糸・混合色役1200色でした。
その後、前掛、胴掛(西)、胴掛(西)と引き続き製作され事業開始から十七年後の平成十一年春、水引の完成を持って鯉山懸装品復元事業が完了しました。
- 平成元年(1989)見送り
- 平成4年 前掛け
- 平成7年 胴掛け(西)
- 平成9年 胴掛け(東)
- 平成11年 胴水引き
- 平成22年 前額水引き